韓国を代表する古宮【景福宮】の見どころまとめ♪

こんにちは~!
ソウルの定番観光スポットといえば「景福宮」ですよね。
ソウルの中心部、高層ビルが立ち並ぶ中、変わらずに佇む景福宮は韓国を代表する古宮として国内外問わず多くの観光客が訪れます。
とても広く壮大な景福宮には見どころがいっぱいです!
今回は景福宮の見どころをご紹介します♪

景福宮とは?


景福宮は1395年(太祖4年)創建された朝鮮王朝の正宮です。
1392年、朝鮮を建国した李成桂(イ・ソンゲ)は首都遷都を決定し、即位から3年後の1395年、高麗の首都だった開京(ケギョン・現在の開城(ケソン))から首都を漢陽(ハニャン、現在のソウル)に移転します。
景福宮はその過程で造られた宮殿で、王の政務の場、王の生活の場として使われました。
景福宮の背後には白岳山(ペックァッサン)がそびえ、山から見て左側に宗廟が、右側には社稷がそれぞれ位置していますが、これは古くから風水地理を重んじてきた韓国の風習により、山の形態や水の流れを考慮し、王宮を市内の北方におかず、ソウルの代表的な山である白岳山のふもとに置かれたんだとか。
しかし、景福宮が正宮として機能したのはわずか200年ほどでした。
豊臣秀吉が朝鮮半島を侵攻した文禄・慶長の役(1592~1598年。韓国では壬辰倭乱(イムジンウェラン)と呼ばれる)の混乱の際に全焼してしまいます。
その後、約270年間も廃墟として放置されていましたが、1867年、高宗(コジョン)の時代に再建されました。
しかし1895年(高宗32年)、閔妃(ミンビ)が殺害されるという事件が起こり、翌年2月に高宗がロシア公館に避難したことで景福宮には王が不在の大宮となります。
そして1910年、日韓併合によって日本の統治下になると、景福宮内にあった多くの建物が壊されます。
景福宮は1990年から復元事業が行われており、少しずつ景福宮のもとの姿を取り戻しています。

光化門(クァンファムン)

1395年(太祖4年)に初めて建てられた光化門は、景福宮の正門で当初「四正門(サジョンムン)」という名称でした。
1592年の文禄の役で景福宮とともに焼失してしまいますが、約270年後の1864年(高宗1年)、「景福宮」再建の際にその姿を取り戻します。
しかし、日本植民地時代の1927年に朝鮮総督府が「景福宮」東側に「光化門」を移転しました。
1950年、朝鮮戦争の時に焼失してしまいましたが、鉄筋コンクリートで復元されます。
そして、高宗当時のもとの位置に戻すため、約4年の復元工事を経て2010年8月15日に現在の姿に至ります。
景福宮とともに波乱の歴史を遂げてきた光化門には色々な思いが詰まっていそうですね。

勤政殿(クンジョンジョン)

「景福宮」の正殿で「民を勤勉に治める」という意味を含んでいます。
王が臣下の朝礼を受け、公式な国家儀式を行ったり、宴会が催され、また外国の使臣との接見が行われました。
宮殿は2階建てで、中をのぞくと1階と2階が吹き抜けになっていて、天井まで見渡すことができます。
景福宮の中でも最も雄大な建物で、中央には玉座があります。その後ろの屏風に描かれた「日月五峰図」は1万ウォン紙幣の絵柄としても採用されています。
勤政殿は文禄・慶長の役で焼失してしまい、その後李朝末期の1867年(高宗4年)11月に興宣大院君が再建、2001年に復元工事が終了しました。

慶会楼(キョンフェル)

慶会楼は国王と臣下が参席する重要な宴会や外国使臣を接待するために作られた池に浮かぶ楼閣です。
誰もが自由に出入りできる場所ではありませんでした。
池の中央には2つの島があり、東側にある四角い島に慶会楼があり、景色もとてもいいところとなっています。
1412年(太宗12年)、太宗の命令によって慶会楼は創建されましたが、文禄・慶長の役で焼失。その後、1867年(高宗4年)、興宣大院君によって現在の姿に再建されました。
当時、公式的な行事がある時以外は立ち入ることができず、現在でも特別観覧でのみ内部が鑑賞できます。

思政殿(サジョンジョン)

勤政殿のすぐ後方に位置しており、「勤政殿」で公式的な行事が行なわれたのに対し、「思政殿」は王が日常的な業務を処理していた執務室のひとつです。
思政殿の名前には「国王が深く考え、国を治めなければならない」という意味が込められています。
王を象徴する龍の描かれた壁画も有名です。

康寧殿(カンニョンジョン)

国王が生活する内殿の中心となる建物で、国王が仕事を終えた後に読書や休憩をする場所として使われていた場所です。
康寧殿は1395年(太祖4年)創建され、国王が健康で安らかであれば人民も安らかでいられるという意味から康寧殿という名前がつけられました。
康寧殿の東側には東の小さな寝殿「東小寝」の延生殿(ヨンセンジョン)、西の小さな寝殿「西小寝」の慶成殿(キョンソンジョン)があり、また延吉堂(ヨンギルダン)などの付属の建物があります。日本統治時代に撤去されましたが、1994年に復元されました。

交泰殿(キョテジョン)

康寧殿のすぐ後ろにあった王妃の寝室です。
王妃の住まいなだけに、景福宮の中で最も華麗に飾られており、王妃はここに居住し、内命府のさまざまな仕事を処理していました。
現在の建物は日本統治時代に撤去されたものを1994年に復元したものです。

資善堂(チャソンダン)

東宮の建物の一部として世子が居住し、王位に就く前に勉強していた場所です。
東宮は世子が百官から朝礼を受けていた正堂である継照堂(ケジョダン)、世子と世子嬪(世子の正妃)の住まいとして使われた内堂の丕賢閣(ピヒョンガッ)、世子が先生を招いて勉強をしていた春坊(チュンバン)、世子を護衛する兵士が留まっていた桂坊(ケバン)などで構成されていました。
東宮の建物は日本統治時代にすべて撤去され、1999年に資善堂と丕賢閣のみ復元されました。
資善堂の周囲を囲む長い回廊の行閣は世子の世話をする女官たちが住んでいた場所で、部屋と大きな棟、台所、門などからなります。

丕賢閣(ピヒョンガッ)

東宮の建物の一部として世子が臣下と国事を議論するときに使用していた場所です。
文禄・慶長の役(1592年)の時に焼失したものを1867年(高宗4年)に再建し、この場所で純宗(スンジョン・1874~1926・李朝第27代王で最後の王)が最後に王子時代を送りました。
現在の建物は日本統治時代に撤去されたのを1999年に復元したものです。

修政殿(スジョンジョン)

石を使って高くて広い基壇を造り、その上に建てたこの建物は国王が国事を行っていた便殿と推定されています。
もともとハングルの創製者、世宗大王の時代に学問を研究する場である「集賢殿(チピョンジョン)」として使われ、ハングルが始めてつくられた場所とされています。
高宗時代の1867年の再建時に、「修政殿」に名称を変更。主に王が生活をする場として使われました。
以前は周りに壁の役割をする長い回廊である行閣が200間近くあり、また周辺には国事を行ういくつかの官庁がありましたが、日本植民地時代にすべて破損したとされています。

景福宮
住所 ソウル特別市 鍾路区 世宗路 1-1
(서울특별시 종로구 세종로 1-1)
電話番号 02-738-9171
営業時間 (3~5月、9~10月)9:00~18:00(最終受付17:00)、(6~8月)9:00~18:30(最終受付17:30)、(11~2月)9:00~17:00(最終受付16:00)
休業日 火曜 ※火曜が祝日の場合は通常営業

まとめ


景福宮の見どころをご紹介しました。
波乱の歴史を持つ、景福宮は歴史を知ってから鑑賞するととても感慨深いものがありそうですね。
韓国最大級の古宮へぜひ足を運んで見てくださいね。

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